最近、芸能人の自殺のニュースが続いている。芸能人だからニュースになっているが、コロナ禍の影響で未成年の自殺も増えている。
これは、富山ダルクでのセミナーでも話したことなのだが、「生きたい」という願望や選択肢があるなら、そこには必然的に「死にたい」という願望や選択肢が生まれる。「生きたい」から生きているなら、そこには「死にたい」から死ぬのもまた然りなのだ。
と、ここまではただの理論であって、私個人の考えとしては、「人間、ほっといたっていつかは死ぬのに、もったいない」である。
私は死にかけた経験こそあれど、死んだことはない。だから死んだら良いことがあるのかはわからない。噂によると体という物理的なものから開放されて、自由に飛び回れるというから、それはそれで楽しいこともあるかもしれない。
しかし、体があって初めて体験できることは、もう二度と経験できない。それがもったいないと思うのだ。
死のうと思えばいつでも死ねる。でも死んだら二度と「もう一度生きたい」という選択はできないのだ。
私を含め「相談すればいいのに」と考える人は多いが、恐らく本人は「それができれば苦労しない」または、そんな意識もないまま、気が付いたら死んでいるのだろう。
以前、ネットのコラムで読んだことがある。
電車のホームに立っている時に、「この足をあと一歩出せば、明日は会社に行かなくて済むかも」そう思って足を出して死んでしまうのだと言う。
足を出そうとしている時、死にたいとは思っておらず、「明日は会社に行かなくて済む」としか思っていないのだ。軽くケガでもすれば休めるという感覚で死んでしまったら、成仏もできまい。
どんな言葉も伝え方や受け取り方次第で意味が違ってしまう。
カウンセラーとして、できることを探さねばなるまい。
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